昔、旅をしていた時に食べて美味しかった、島根県の割子そば。思い出した様に食べたくなったが、そもそもそれはどの様な歴史・背景があるのだろうか?
以下の初心を見て、どうやって食べるの?と思った。回りを見ながら、蕎麦に薬味や出汁を掛けながら食った。正しかったのか?
出雲そばと言われるものの概要
出雲そば(いずもそば)は、島根県の出雲地方で広く食べられる郷土料理の蕎麦。割子そば・釜揚げそば等がある。
三大そばの一つ(ほかの二つはわんこそば、戸隠そば)。蕎麦粉を作るときソバの実を皮ごと石臼で挽くためそばの色は濃く黒く見え、香りが強い。最近は日本各地のそば粉が使われているが、本来は奥出雲町など地元産のそば粉を使う。
出雲そばの歴史
出雲地方では奥の院詣り(出雲大社、日御碕神社、美保神社、大山寺、一畑寺)の際に、門前のそば屋で蕎麦を食べるのが庶民の楽しみであった。
また「神在月(かみありづき)」に行われる「神在祭」(通称「お忌みさん」)の際、神社の周りに屋台のそば屋が立ち並び、身体の温まる「釜揚げ」で新蕎麦を食べた。
「釜揚げそば」は、出雲を去る神々を見送る儀式「神去出祭(からさでさい)」にちなんで、「神去出そば」また「お忌みそば」と呼称されることもある。
松平治郷はこの地域の産業・文化を振興した名藩主として「不昧公(ふまいこう)」と呼ばれ親しまれているが、当時「高貴な人はそばを食べない」とされていたにも拘らず、不昧公はお忍びで夜に屋台の蕎麦(いわゆる夜鷹そば)を食べに行くほどの蕎麦好きでこだわりの食べ方を語っており、茶人としても茶懐石に蕎麦を取り入れその地位向上に一役買っている。
割子そば
出雲そばの中では三段の丸い漆器にそばを盛って出す割子(わりご)そばがもっとも有名な形である。
これは江戸時代に松江の趣味人たちがそばを野外で食べるために弁当箱として用いられた形式が基となっている。
出雲地方では昔から重箱のことを割子(割盒とも)と呼んでおり、当時の割子は正方形や長方形、ひし形などさまざまな形であったが、1907年頃に当時の松江警察署長の発議によりヒノキを用いた底の厚みのある丸形の漆器に変わった(警察署長の発議は、割子が四角形であると四隅が洗いにくく、衛生的見地から問題があると見たからと言われている。なお、当時の食品衛生は警察の管轄であった)。
食べ方
他の地方の蕎麦に比べて、だし汁の掛け方が違う。他地方では蕎麦をだし汁の中に入れる場合が多いが、出雲そばの場合、だし汁自体を器に入れて食べるため、だし汁を入れる容器の口が狭くなっている。
それに薬味をかける場合が多く、おろし大根は定番である。 三段重ねの場合、まず一番上の割子にだし汁を全部入れて蕎麦を食し、食べ終わったら残っただし汁を二段目にかけて食す、というふうに、だし汁を使い回しながら上から順に食べてゆく。
釜揚げそば
釜や鍋から茹でたそばを水洗いせず直接器に入れて、茹で汁であるそば湯をかけ、つゆや薬味を使って食べる「釜揚げ」と呼ばれる食べ方も好まれている。
同じ麺類としては、山梨県富士吉田市界隈で食べられている吉田のうどんに、茹でた麺に茹で汁をかける「湯もり」という似た食べ方がある。
玄丹そば
松江市には玄丹そば(げんたんそば)と呼ばれるそばがあるが、これは1997年より減反によって休耕していた松江市郊外の田(減反田)を用いて育てられたそばで、基本的には出雲そばから派生したものである。名前は江戸時代の末期に松江藩を救った玄丹(げんたん)お加代という女性にあやかってつけられた。